Tag: 演技

演劇芸術の「最高の到達点」

スタニスラフスキーの文章を引用します。 演劇芸術において、最高の到達点というのは、お客さんにウケ狙いをするのでもなく、自分が何か追体験を頑張ってしようとするのでもなく、その空間で人として本当に生きられる事。自分のために。自分のためにそれができるようになること。 それは独りよがりではありません。それは精神的な真実のためです。魂の真実。 どうしても、芝居の経験のない人でさえも舞台に出てしまうと、どうしても演じなきゃという欲求が潜在意識の中で無意識的に起こります。 スタニスラフスキーの言葉で、先ほどの続きですが、その状態になったら、大きな理想について語ることを、それが退屈だと思われてしまうというふうに恐れない。それを恐れない。 どうしても役者って、そういうこと言ってしまうとつまらないんじゃないかと思ってしまいがちです。 さらに自分の中の感情とか、体験を言葉で一生けんめい説明する必要もない。そういう状態になるのは、待つだけ。 さらに客のウケ狙いを考えるのではなく、自分のために、その空間で生きるようにする

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「形式的な行動」をしても

どういうふうに行動が「生まれてくるか」ということを感じて欲しくて、このエチュードを練習しています。 スタニスラフスキーシステムにおいては、感情とかそういう全てが生まれる元になるのが「行動」ですと説明されています。 行動とは意識的な、意思を持ったプロセスです。 ただ残念ながら、世の中には「行動」に対してのいろんな理解の仕方があります。 大体の人はなんとなく、行動って何だろうと、わかってるつもりになっています。 私たちは日常でいろんなことをやる、それが行動だと思い込んでいます。 「行動」にはいろんな質と、特性というものがあります。 スタニスラフスキーは「行動」とは論理と順序性があって、生産性があり、完結していなければならないと説明しています。 あと行動は具体的でなければなりません。抽象的であってはいけないと言われています。 演劇芸術の中で、いろんな人が「行動」を理解しようとして、あまりうまくいっていません。 なぜかというと「行動」っていうものは「形式的」になりやすいからです。 例えば私が皆さんに「こういう行動をしてください」と言って、皆さんそれをやり始めると思います。皆さんからすると、それが行動だと思っています。 でもそれは形式的なもので「私が言ったからやる」ということだと「欲求」がないのです。 私がそれを言わなければ、皆さんもそれをやり始めない。 つまり「他人の行動」をやっているということは、それは「行動」ではありません。 一番重要なのは「行動が生まれる」というプロセスです。

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「正解」を求めない

日本で日本の俳優や、学生達と色々仕事している中で、気づいた点があります。 日本人の特徴として、唯一の正解を求めようとします。これ、あり得ません。 芸術においては何千通りとバリエーションがあって、それぞれ一つ一つが全て正しいのです。 特にチェーホフのような古典作品と言われているものは、何千通りと解釈ができます。そして、その一つ一つの解釈全てが正しいのです。 なので「これであっているかどうか」という、そういう「正解は求めない」でください。 自分がやりたいと思うことをやってください。それが正しいのです。 みなさんにわかってもらいたい、体験してもらいたいこととがあります。みなさんは全宇宙の中で、唯一無二の存在、唯一無二の個性を持った存在だと言うことです。 そこがみなさんの宝です。 例えば木には何枚も葉っぱがあります。でも全く同じ葉っぱは一つとしてありません。これが宇宙の法則です。自然界の法則なのです。 海岸には砂浜の砂つぶが幾つあるのでしょう。これも同じものは一つとしてありません。 似通ってはいても、同じものはありません。自然や宇宙は、そう言う法則を持っています。 何が言いたいかというと、「自分の個性」を自分で愛してください。誰かを真似する必要はありません。 自分自身を見つけて、「自分の個性」をどんどん開いていかなければなりません。 自分の個性が開かれて来た時に、周りで見てる人は、そこに見惚れていきます。 誰かの真似をする必要は全くないのです。「自分」がやることをやってください。

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「プログラムどうり」にしない

この先どんなことになるかなんて、お互いにわからなくていいんです。それでいいんです。 だから、プランしてたようになるのではなくて、直感的なものが働き始めるということです。 今の問題は、みなさんプログラムどうりにやろうとすることです。 スタニスラフスキーは、創造というのは直感的なものでなければならないと言っています。 つまり何が起こるかなんて、誰もわからない。その状態がいいのです。相手役がどんな反応するなんて誰も予測ができません。それを知っては行けないのです。 相手役こう反応するだろうなって前もってわかってたら、創造はもうおしまいです。 それがわからない状態になっていると、そうすると本当に面白くなってきて、だんだん引き込まれていきます。 言葉なしでも伝えたくなってきます。 創造は直感的にならなければなりません。 最初に分析をやった意味は、頭で意味をわかるためだけです。作品の意味をわかるためだけ。最初にわかったのは、いろんな面白いシーンがあって、これは喜劇なんだなってことがわかりました。全員おっちょこちょいだということもわかりました。それは頭で分析したことです。それはいいことです。 それをこのリハーサルの間では、生活していきます。 ただ、その生活が生まれるのは、相手役のおかげです。 スタニスラフスキーが言ったとても大事なことは、本当に交流できている場合、相手役をちゃんと感じられている場合、他のものは全て勝手に生まれてくるということです。

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「ト書(泣く、笑う)」よりも大切なもの

自然な稽古の流れで、人としてその状態にいかないのであれば、そのト書はやらないほうがいいです。 基準はやはり真実です。自分の感情の真実と確信そこを基準にしてください。 戯曲上、そういうト書があったとしても、そんなにこだわらなくて良いです。 チェーホフの桜の園の初稿がありましたが、実際には最終稿に書かれていないことがたくさんありました。 実際初稿に書いてあったト書を役者がやってみて、何かやりづらい。役者からもチェーホフに質問があった。どうすればいいかと。 やってる方も、これどうしてもやりづらい、私ならこうするんですけどと。 チェーホフも、じゃああなたならどうするの?こういう時、どういう?と、取材をする感じで全部書き直しています。 で、役者に自然に出てくるセリフの方が面白い。 本来の劇作家、シナリオライターというのは、やる俳優を優先に書きます。表現するのは役者なわけですから、やる役者が自然体で真実をつかめるように書きます。 そう書かれているから、絶対にそうしなければいけないというわけではない。 それは書いた作家にとっても、お客さんにとっても、そこはそんなにこだわらない。 例え形だけでそこをやったとしても、劇作家のやりたい表現にいかないだろうし、お客さんにもそれは届かない。

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「憎しみ」の使い方と物語の結末

舞台上で使う感情というのは、日常生活の感情とは違います。以前説明したことがあると思いますが、ワイン(舞台上で表現される感情)と、原材料の葡萄(日常生活で起きたそのままの感情)とは違います。 舞台の上ではどんな時でも、相手と優しさというつながりから始めます。 根底として相手と優しさとつながっているものがあれば、その上で憎しみだろうがなんだろうが、そして、本当に正直にお前のこと殺してやるという状態も作れます。 でもそれは相手との信頼関係があるからできるのです。 それがあると、葡萄とワインの例えにおける、ワインの状態になります。 なので、舞台上での感情は言ってみれば根底のものと二つ組み合わさっています。 最初につながりがあったら、実際に舞台上で相手とやりとりしているうちに、どんな感情が生まれてくるかはわかりません。 それは最初から計画はできません。 だけど、一番最初に相手と優しさでつながったところから、あとは交流しているうちに何が生まれてくるかは、その時次第です。 なので、毎回やるたびに、作品の見え方や感じ方が変わってきます。 そうやっていけば繰り返しがありません。 一番最初に相手との信頼関係と優しさでつながっていたて、やっているうちに、なぜか今日はもう相手に対する残酷な、今まで感じたことのないような気持ちがくるかもしれません。自分でもなぜこんなに残酷になれるのだろうと思うこともあるかもしれません。 戯曲は結論が決まっているじゃないですかと質問を受けます。でも実際はどうなるかわからないのです。 セリフは決まっています。でも、その時どういう感情が生まれてくるかはわかりません。どういう感情で終わるかもわかりません。そしてさらに、それを見てお客さんがどういう印象を持って帰っていくかもわかりません。

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「イミテーション」は他人事

もし私が、イミテーションをずっとやり続けていると、自分の役とは絶対に結びつきません。結びつくことができなくなってしまいます。うまくいきません。 他人の言葉をずっと言い続けるだけです。全て他人事になってしまいます。 つまり、私自身がいなければ、全て他人事になってしまいます。 チェーホフが与えてくれている、提案された状況を、自分の中で生き直さなければいけません。生きた人間として。 そうすると自分自身が芸術的継承を生むことができるようになります。 役として、相手役がどういう言葉を話すかは前もってわかっていますが、どんな感情を込めて話すかは、前もってわかりません。 なのでラネーフスカヤ(桜の園の登場人物)をやっている女優は、その発する言葉に考え、感情をこめて、相手役に影響を与えるようにしなければなりません。 そして影響を与えられて、相手役はそれに反応しなければなりません。 その反応する時ですが、ただの自分自身としてではなく、ガーエフ(桜の園の登場人物)という要素をもって反応します。 ちょっとだけ、ガーエフの要素をもって答えなければなりません。ちょっとだけ変わります。 例えば私はみなさんの前では「先生」です。レオニードだけれでも「先生」です。でもスーパーに行った場合は、私は何かを買いに行く人「お客さん」です。 特に病院に行くと、全然自分が変わります。私はお医者さん大嫌いですから、目の前にお医者さんがいると・・・生きたレオニードですけど、病院に行くと、全然違う継承になってしまいます。病院に行くと、全然違う性質が勝手に出てきてしまうのです。 だからどういう職業を持っているかによって、やることとか性質も変わってきます。 スタニスラフスキーも言っていますが、自分は自分自身のままでいるのですが、提案された状況の中に入って、ちょっと違う人間になるだけです。 普通に実人生でも、そういうことは起きているので、何も演じる必要はないということです。条件によって変わるだけです。 そういうふうにしてしか、芸術的継承は生まれてきません。イミテーションをやってる時は、芸術的継承は絶対に生まれてきません。 芸術的継承は、自然の中で植物が育つように、自然に生まれてくるものです。

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