大体の人は、私は劇作家(ここではチェーホフ)が書いたロパーヒン(作品に登場する役)になるんだと思ってしまいます。私はロパーヒンではない、劇作家が書いたものが本物だと。
そしてだんだん、その死んだ像に従うようになり、それが自分をコントロールし始め、その結果「生きていない人」になってしまいます。
スタニスラフスキーは、そうやって自分自身のことを殺すことが、戯曲そのものをも壊すことになると言っています。 大抵の俳優は劇作家(チェーホフ)に従うということを決めてしまっています。書かれたラネーフスカヤ(作品に登場する役)は死んでるものです。だから今まで上演されてきた桜の園のラネーフスカヤは、大体死んでるし、大体似ています。美しくて、叙情的で・・・。
でもそれらは嘘、嘘、嘘です。死んでるから嘘なんです。 チェーホフは俳優にそのようなマスクをして欲しかったのではなく、生きた人間にこれをやって欲しかったのです。
チェーホフさんありがとう、でもこれは私ではありません。私は生きているから、生きたものをやりたいのです。愚かかもしれないけど、でも生きています。チェーホフよりも才能はないかもしれないけど、でも私は自分自身でいて、生きた存在のままでいたいのです。 もちろんチェーホフが書いてくれたセリフはしゃべります。でも私は私が理解するようにしかしゃべりません。セリフの中に込められている考えは、私自身のものです。チェーホフが考えたものとは違うかもしれない。でも私がやりたいようにやるのです。
